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委員会

第4回 関西のインフラ強化を進める会 開催日:H30.4.17(火) 開催場所:大阪キャッスルホテル

議事
1. 基調説明
「観光とインバウンド」
橋爪 紳也 氏(大阪府立大学教授)
「大阪の都市再生の展開について」
高橋 徹 氏(大阪市都市計画局長)
2. 意見交換
3. 関西のインフラ強化を進める会 中間取りまとめ(案)
 ~明日を創造するプロジェクト~

1. 基調説明「観光とインバウンド」講演資料(202KB)

橋爪 紳也 氏(大阪府立大学教授)

はじめに

皆さん、こんにちは。橋爪でございます。

観光とインバウンド、国際観光振興と都市基盤整備ということで、既にこの委員会ではかなり議論を進められていまして、提言もかなりできていますので、そのあたりの話を省かせていただき、私の思いを若干申し上げたいと思います。

現在、大阪商工会議所あるいは京都市のツーリズムの関連の業務などもしていますが、基本的に都市開発と観光、来街者の関係性をどう考えていくのかということが重要な論点になってきます。

話は3点ございます。1点目が「国際観光振興と都市基盤」、2点目が「国際観光振興とオーバーツーリズム」、3点目が「2020年国際博覧会誘致に向けて」です。

私が考えているのは、今回の提案も含めて、我々が未来を語るときに、根なし草になってはいけない、我々がこの間、どのような道を歩いてきて、これから将来に向けて何を提案するのかということを忘れてはいけないと思います。

1. 国際観光振興と都市基盤

観光の歴史に関して何冊か本を書いておりまして、1冊は『瀬戸内海モダニズム周遊』、もう1冊は最近出版いたしました『大京都モダニズム観光』です。

瀬戸内海がいかに観光地として開発されてきたのか、あるいは京都がいかに国際観光都市になったのかということの初期のフォーマットと、いかに極めて短い期間にそういうことがセッティングされたのかということを、さまざまな資料から論じているものです。類書はほかにないと思います。

瀬戸内海の観光開発

瀬戸内海の考え方としては、大阪商船という船会社が大阪別府航路という幹線の航路をつくり、海に面した幾つかの港を重点化し、そこから観光開発が始まりました。

例えば金毘羅や松山道後温泉、別府温泉等もこの船会社が神戸・大阪から多くの人を送客することで、初めて観光地として整備されていったということを、我々はもう一度確認するべきであります。船会社が地域の観光振興を行ったのが瀬戸内観光の初期モデルです。

くれない丸という非常に重要な船を投入し、さまざまな瀬戸内観光のコースをつくりました。1週間ぐらいのコースや2泊3日、あるいは大阪湾を経て熊野に行くなど、実に多様なクルーズ事業を戦前おこなっていました。

大陸などに船が行くので、その途中の門司から乗り、神戸まで、あるいは大阪・神戸間だけでも多くの観光客の方に乗っていただくということをしていたと、我々はもう一度確認するべきだと。しかも、船内には和風のデザインも入っており、日本が世界に冠たる新しい海の観光事業を開くという、非常に意欲的な事業をしています。

瀬戸内観光の鳥瞰図は吉田初三郎が描いています。特に描きたいところだけを大きく描いているので、小豆島と淡路島がほぼ同じ大きさでスケールアウトしていますが、ここは細かく描きたいというところは、やたら大きく描かれていて非常におもしろいです。白い線で主要な航路が全部描き込まれています。要は船から見て、我々はこの海がどう見えるのかという視点から、観光というものを見ていたということがわかります。最も海の狭くなるあたり、香川・岡山間なども非常に丁寧に、様々な島々があるということを強調して描いています。厳島神社が相当巨大に描かれていますが、ウェイトをかけているところほど大きく描いています。

そして、昭和の初めにはアメリカの制度を模倣し国立公園法をつくりました。これはまさに国際観光、外国人の来訪を意識したものです。最初の国立公園が、世界の宝石箱と当時アピールしていた瀬戸内海国立公園及び雲仙、霧島の3カ所です。

最初の瀬戸内海国立公園はこの図であるように非常に狭い。その後、どんどん拡張され六甲山や加太のほうまで瀬戸内海国立公園になりますが、当初は最も瀬戸内の狭いところが国立公園指定になりました。

拡張された背景には、従来は船から見た景観が瀬戸内の魅力だと言っていたのを、造園のほうで有名な本多静六先生などが発見した「眺望景観」、展望台から見ると非常に美しい島影が並んでいる、こういうのは大事だということで、鷲羽山など幾つかの眺望点を設定し、そこからの景色をもって国立公園に値するとアピールした。当然、展望台が各所に開発されていくわけです。

何を申し上げたいのかというと、あるインフラや観光開発が始まる時に、視点の組み替えや新しいアイデア、発想がそこにある。何が一番瀬戸内海で大事であったかというと、江戸時代の人は瀬戸内海という概念がなく、播磨灘や燧灘などと、それぞれの細かい海として理解をしていた。観光客を遠くから集めるために、それを瀬戸内海という非常に大きな目線で見た。世界でこれほどすばらしい内海はないと。ジャパニーズインナーシーということで、対外的にアピールするというように、物の見方を変えたときがあります。それによってさまざまな新しいインフラ、新しいルート、新しいビジネスが生まれた。

我々も将来のインフラを考えるためには、従来こうであったからという語り方も必要ですが、それ以上に新しい条件を設定し、だからこそ我々は物の見方を変えるのだと。よって次世代型のインフラというのは、何か新しいアイデアや条件が入れば従来のものは全部読みかえられる。そして全く違う発想のインフラというものが生まれてくる。

瀬戸内海という言葉は明治の終わりぐらいに日本人も使い始め、大正昭和初期にはよく使われるようになりました。非常に新しい、まだ80年、100年ぐらいの概念が瀬戸内海だそうです。

京都の観光開発

もう1冊、『大京都モダニズム観光』というのは、なぜ「大」がついているかというと、従来の京都市が都市計画に沿って周辺の市町村を合併し、“グレーター京都”大京都になったときが昭和の初期にあります。従来の京都市に対して、昔風にいうと洛中、洛外の、洛中が京都市だったのに対し、洛外も全て京都になると、愛宕山の山頂から比叡山の山頂、宇治川まで全て京都市だと、市域拡張した時に、発想が変わりました。そのあたりの都市計画及び観光開発について調べているのがこの本です。

特に世界的な位置づけ、大阪市も市域拡張し、人口規模で世界5位、6位を争う都市になりますが、京都の場合は面積で世界3位ぐらいを争う世界都市になります。人口規模ではそれほど大きくはない。ただ、そのときに既成市街地と周辺部の田園地帯、さらには山々全てを市域に編入したことで新しいアイデアが生まれたということです。

京都において観光の契機は、昭和3年に京都で行われた昭和天皇御大典事業です。京都御所などで儀礼が行われ、その後一般に公開し、御所の特別拝観がかなり長く行われました。この事業に合わせ、日本中から多くの人が京都を訪問するようになります。あわせて明治天皇の御陵である桃山御陵が、日本人の修学旅行等で行くべきところとなり、京都が一大、人を集める場所に変わったのが昭和の初めです。

同時にこの頃、国際観光という概念が政府にあるので、京都そのものが観光、特にインバウンドの観光に適した都市に切り替わっていきます。先ほどの大京都という市域拡張とこの国際化が同時進行し、10年ぐらいの間にダイナミックに行われた時期があります。

京都商工会議所は『大京都』というガイドブックを発行していて、これは私が見ている中で、非常にわかりやすく詳しい当時の京都の案内本で、京都は従来の京都ではなく大京都になったということを紹介するような本です。

例えば、これも初三郎の鳥瞰図を見ると、比叡山等に、当時としては画期的であったロープウエー及びケーブルカーを敷設します。いわば世界最先端の観光用の人を輸送する機器を投入した。一方で大津側にも坂本側にもおりるので、例えば三条京阪から八瀬に抜け、ケーブルカーで上がり、ロープウエーで比叡山をまたいで、坂本におり、琵琶湖を船で行き、宇治川ラインに流れて、またバスに乗り宇治駅に行き、三条京阪や大阪に戻るという一大観光ルートが、このとき京阪電車を中心に整備をされます。要はスイスなどの観光のあり方を見て、比叡山及び琵琶湖の観光ルート開発は、さまざまな乗り物を乗り継いで楽しみながら、このエリアをずっと回るように整備されます。

また保津川下りなども人気になりました。そのときは高槻や桂からバスで亀岡に抜け、保津川で下り、嵐山からまた周遊する。各鉄道会社は新しい鉄道を入れ、新しい道路整備を踏まえて観光開発をした。ほんの10年ぐらいで、京都の周辺部至るところに新しい観光開発事業が入ってきます。あわせて文化的な資産、先ほど申し上げた明治天皇御陵や、桃山の伏見稲荷等、非常に多くの人が訪れるような場所に変わります。

これに向けて京阪は、計画していた宇治線を川の左岸側から右岸に計画を変えたりして間に合わせ、阪急も今の西院、大宮の駅に向け、昭和3年の御大典に向けて鉄道を敷設します。京都市駅でも道路拡張などさまざまな事業を、この昭和天皇の御大典に向けて整えていくことが行われました。

嵯峨野ですが、今の嵐電、京福電車が走っています。その途中にさまざまな伝統的な社寺仏閣、あるいは名所旧跡があります。観光開発があると従来は評価されなかったさまざまな歴史や物語や文化などが再評価されるのですが、その後、インパクトになるのはインフラ整備で、鉄道が入り、道路が整備される中で、もう一度物語が組みかえられたのが、この昭和の初めの京都であります。これは嵐山の状況です。

従来忘れられていた、さまざまな史跡や文物が再評価をされ、特に保津川下りなどは、従来産業用のいかだを、材木を下っていたものを観光化する。同じように木津川沿いでも産業用の船下りが観光用に変わる。インバウンドの観光客を意識することで、従来の産業のインフラが観光用のインフラに切りかわるということがあるということを我々はもう一度確認するべきだと思います。

京都市は日本の自治体で初めて観光の部局をつくり、京都駅前に観光案内所をつくって、日本中から京都に来る人、海外から来る人を出迎えるということをしました。

昭和2年に京都駅構内に市営の観光案内所を設置し、昭和3年の昭和天皇の大礼奉祝に対応し、日本で初めての観光課を昭和5年につくり、昭和10年、13年にかけて各所に案内所、休憩所を整備し、なおかつ円山公園、京都博物館、嵐山に外国人向けのトイレをつくる。清水寺、嵐山には女性専用の公衆のトイレもつくる。さまざまな伝統行事も全て観光のプログラムに取り込み、各ホテルは観光客が増えるため、従来のホテルを建て替え高層化し、多くのホテルが京都では建設ラッシュ、三条大橋近辺の旅館も近代的なトイレ等に施設を変えて、お客さんを受け入れる準備をしました。都ホテルなどは外国人シェフを招いて、世界の人が来ても恥ずかしくないホテルに切り替えたということです。

加えてナイトライフ、夜の楽しみも充実させ、祇園町や花街のおどり、南座とか松竹座でさまざまなエンターテイメントも行われ、夜景のライトアップも始まります。

嵐山電車沿線には新しいコンテンツが必要なので、映画撮影所が続々とできたため、その界隈に行くと映画俳優に会えるかもしれないということで、このエリアが観光地化します。

大阪の観光開発

そのころの大阪は、産業観光に重点を置き、文化的、歴史的なものはないという前提のもと、水都号という船をつくり、川筋をめぐる観光と遊覧バスを連携させ、多様な観光ルートを開発し、加えて修学旅行等の対応などもするために、すさまじい数の旅館等が、短期間で大阪にもできてきたのが昭和の初めです。大阪市のつくった観光施設は、例えば、大阪城の復興天守閣。昭和天皇御大典記念事業として大阪市が位置づけ、観光客向けの歴史的博物館として当初整備されました。

というように、昭和の初め、1930年代に国際観光振興を図り、政府が国際観光局を設置したがゆえに、さまざまなことが起きました。背景には太平洋航路により大型の旅客船が入り、大陸南方への航路が拡充されたこと。鉄道路線は日本中にネットワークを果たし、国立公園が制定され、ホテルの洋風化や国際観光ホテルの制度(「国際観光ホテル」建設資金融通制度等)により、リーガロイヤルホテルの前身である新大阪ホテルなどが官民連携の、政府の後ろ盾もありながらつくられました。

京都は文化観光に力を入れ、夜間観光も充実させる。大阪は産業観光でさまざまな新しい観光資源をつくった。

ベンチマークとしては、皇紀2600年、昭和15年、東京で万博・オリンピック同時開催ということが決まっており、そこへ向け昭和10年ぐらいから日本中、各都市が国際化に力を入れ出すという状況があります。

ざっと申し上げましたが、全て今の話と、フェーズは変わりますが、ほぼシンクロをしています。我々は何度かこの国際観光によって地域全体を変え、新しいインフラをつくろうとしてきた時期があります。またホテル、旅館等も再整備をした時期があります。

この1930年と同様に、戦後復興期、高度経済成長期にかけ、同じように国際観光振興に我々の先輩は力を入れ、特に海外渡航を自由化した今から50年ほど前、港湾を復興し、大阪空港も大阪国際空港に改め、多くのエアラインが大阪にも入るようになった。全国の高速道路のネットワークをつくり、阪神高速が万博に向けて道路網をつくった時期があります。新幹線が開業しホテルが足りないと拡充し、京都は文化観光に力を入れ国際会議場をつくり、大阪は産業観光に力を入れなければならないと見本市会場をつくるといった経緯が50年ほど前にもありました。当時日本中で地方博覧会も戦後復興から万博当時にかけて行われていました。当時の目標は東京五輪であり、その後の大阪万博であると。

何を申し上げたいのかというと、我々はもう一度このフェーズに今入っていると。考えなければいけない論点も、時代が全く違い、フェーズが違いますが、かつて我々が持っていたもの、忘れてしまったものが多々あるということ。特に瀬戸内海が国際的な観光地であり、多くの船が遊覧するすばらしい場所であるということは、戦前は高らかにうたっていた。それを私たちはもう一度きっちり、現代から未来にかけて整えていくべきであろう。

2. 国際観光振興とオーバーツーリズム

2点目は、国際観光振興とオーバーツーリズム。

政府目標で2020年の訪日外国人の旅行者数は4,000万人、2030年に6,000万人になる。よく申し上げるのは、この6,000万人のインバウンドが来るときのイメージを多くの専門家は共有しているのかと。世界ベスト5に入る観光大国に我々はなります。どのような状況に各都市、各地域がなり、各都市基盤が、どのぐらいの容量が必要なのか、どういうクオリティーの施設群が必要なのかということを、我々はイメージをしなければならない。対処療法で、人数が増えて来年、再来年どうなるのか、ドラッグストアの買い物が減ってきたとか、ホテルが足りないとか、そんなことを言っている場合ではなく、6,000万人観光客が来る時代に向けた絵を今から描かなければいけない。

なぜかというと、国連機関が考えているこれからの国際観光客の伸びは、2030年段階で年間18億人が国境を越えて旅行をすると予測しています。ほんの10年ぐらいの間に爆発的に、世界旅行をする人が世界中で増えていきます。2010年代に入り、ようやく年間10億人にのったのですが、あと10年少しで倍増します。

爆発的にこれから伸びるのは、東アジアだと予測されています。これは経済成長に伴い、多くの人が国境を越えて旅行できるようになる。私の親の世代が50年前に、JALパックで初めてハワイに行ったようなことが、今世界中で起こっているのです。

この増え続けるパイを世界各地域、各都市がいかに取り合っているのかというのが状況で、今後10年、20年ぐらいで、ますます国境を越える人の流動性は高まるでしょう。これは紛争や世界的な戦争がない限り、こういう形になるということは大体20年前ぐらいから予測されていました。

今後ますます増える海外旅行客の急増に対して、我が地域大阪あるいは関西、あるいは西日本はどのように考えていくのか、という戦略を持たなければいけない。

MICE誘致の競争や、富裕層の目的地化は当たり前のことだと思います。

そういうことを、私は2002年に『集客都市』という本に書きました。ビジターという概念を導入し、ビジターインダストリーの振興が必要であると。要は観光客だけではなく、さまざまな目的でその地域に滞在する、研究者や大学生、単身赴任の人たちなど、半年や1年、あるいは1週間滞在する人も全てビジターであり、狭い意味での物見遊山の観光客シフトではないというところが重要。世界中でこの滞在者を増やす。中期、長期、短期の滞在者を増やすために都市基盤というものがつくられるというような発想になっていると。医療のツーリズムとか研究のツーリズム、さまざまなツーリズムが今後必要であろう。

都市再生の契機として、この種のツーリズムを高めるためにマーケティングが必要だと、ディスティネーションのマーケティングや、時間と季節のマーケティングの必要性、ナイトライフ需要など、ライフスタイルの開発が必要だということを2002年のときに申し上げたが、ほとんど注目していただけず。

これは余談ですが、私の本は今ヤフオクで1円ぐらい、今出せばベストセラーだったはずなのに、ちょっと早過ぎたような…自慢です。でも、我々は今の目先の対応ではなく、ほんとうに10年先、20年先にどうなっているかのイメージを強く持ち、これからの施策に当たらなければ、未来に向けての基盤が不十分になるのではないか。

最近の私の研究テーマの新しい論点はオーバーツーリズムですが、これは世界中で問題になっています。極めて短期間にインバウンドの観光客が増えたため、世界中で問題が多発し、それに対応することが政策上重要になっている。そのため、住民と観光客の対立の激化をいかに緩和するのかということにも、ハードもソフトも制度的にもさまざまな手だてが必要である。

例えば、バルセロナが昨年観光計画を変えました。都心部に民泊も含めてホテルが増え過ぎたため、その総量規制に入っている、一番注目され世界中の人が見に行っています。中心部の、特に郊外に近いところが観光客向けの施設に変わり、ジェントリフィケーションし、昔から住んでいる人達が、家賃が高くなり住めなくなっている。また、あるところは観光客にとっては楽しいのだろうが、非常に雰囲気がよくない、そういうリゾート的な場所に置きかわっていっている。計画的ではないそのような状況に、どう対処するのかということを考えざるを得なくなりました。バルセロナでは幾つかのエリアにおいてはこれ以上のホテルの立地は認めない、かわりにホテルの少ない周辺部に多くのホテルを認めるという誘導策を打っています。

要は持続可能な適正規模の観光都市というのはどういうものかということを、バルセロナは我々より先行しているので、初めてそういう施策を打った。特にクルーズ船が多くバルセロナに来るが、クルーズ船に泊まっている人がホテルに泊まらず、夜になったら船に戻るため、ほとんどお金を地域に落とさないことが向こうでも課題で、ごみやら騒音だけを落としていくということに関し、市民から色々な問題提起があります。

この持続可能な観光開発に向けて、都市計画と観光開発等の計画との相乗効果を我々は考えていかなければいけない。バルセロナや地中海の島々には「観光客、帰れ」と住民が運動を起こしているところがあります。昨年、私が行ったときには「観光客よ、帰れ」というポスターと、「カタルーニャ独立万歳」という両方のポスターなどが並んでいました。同じようなことがこれから日本でも多々発生するでしょう。

京都では既に観光公害という言葉があり、既にオーバーツーリズムの問題が顕在化しています。例えば、割烹料理屋さんに予約をして、当日ドタキャンする方々が非常に多く困っている。ただ事前にカードで支払えばいいということではなく、予約したらちゃんと食べに来て欲しい、というのがお店側の思いであり、その辺が非常に難しい。

また、特に花見小路に行くとわかると思いますが、着物のコスプレをした外国人があふれていて、舞妓、芸妓が歩くと、自撮り棒のカメラで一緒に写真を撮ってくれと舞妓の肩をとんとんとたたく外国人が続出しています。我々は暗黙のルールで、祇園町を歩いている舞妓の肩をとんとんとたたくということはまずしなかった。それが非常に問題なので、立て看板で「舞妓の肩をたたくな」というピクトグラムを出さざるを得ない。これは対処療法なのです。本来は事前に、ここはこういうマナーのエリアなので、こういうふうに滞在してくれということをうまく通達していかないといけないのですが、そんなことをしない間にさまざまな問題が起こっている。知り合いの芸妓は、ミッキーマウスの気持ちがわかる、すぐ写真を撮ってくれと人々が押し寄せてくる、というようなことを話していましたが、こういう問題が多々出てきます。

また、伏見稲荷などでは鳥居の写真を撮りに来ているので、神社を拝まず、神社の境内の振る舞いというものがないので、京都市なども、例えばスペイン語バージョンのこの場所での過ごし方、伏見稲荷はこういう場所であることを説明せざるを得ない。こういう状況がオーバーツーリズムの起こす問題です。要は多様な人を受け入れるということに対し、我々はいかに地域として覚悟があり、どんなルールをつくり、あわせてどんなインフラをつくっていくのかというのが非常に大事であります。

3. 2020年国際博覧会誘致に向けて

もう1点。そのあたりで観光振興とBID(ビジネス・インプルーブメント・ディストリクト)というものも1つのソリューションとして使われている事例もあります。何を言いたいのかというと、来街者が来れば来るほど、地域が良くなるとはどういうことかを、これから行政サイドの人は市民に説明せざるを得ないわけです。市民と来街者が、ともに新しい都市をつくっていくんだというような発想が必要であろう。

アメリカやイギリスのBIDの中に、観光に特化したBID、TBID(ツーリズム・ビジネス・インプルーブメント・ディストリクト)やTIA(ツーリズム・インプルーブメント・エリア)というのがあります。ですと、ホテルが負担して一定の割合をのせて地域の改良に資するというのがあります。

幾つかのまちを調べていますが、ご紹介するのはロサンゼルスのLAライブという事例です。これは公共がつくった見本市会場が、エリア全体の治安も悪くなかなかうまく回らないため、民間が運営を受け入れ、なおかつ周辺部に幾つものホールやホテル、ショッピングセンターを新たにつくり、デジタルサイネージなどの規制緩和も得ながら、スポンサーをとりながら、まち全体を変えた成功事例です。スポーツ庁などが言っている「稼げる」アリーナのモデル事例の1つになっているところです。

LAに71年に完成したコンベンションセンターやステイプルズ・センター(LAレイカーズや、バスケット、アイスホッケーのプロチームの拠点施設)などを含めたエリア全体を民間が管理する。非常に多くのネーミングライツとか、スポンサーシップを集めながら、非常にすばらしい集積地に変えた。ここの会社にモデルはどこかと聞くと、東京の銀座とニューヨークのタイムズスクエアみたいなものを、ゼロベースでつくったということを言っています。

市の景観担当に話を聞くと「うーん、許したくなかった」というような思いでした。

ここだけ特別なガイドラインで夜景がつくられている。安全も担保され、非常ににぎわいのあるすさまじい集客力のある施設群をエリア全体のリノベーションで、用途転換を含めた地域の再生の成功事例。こういう事例が世界各所に今出てきています。

特にLAライブの事例でいうと、このLAライブを受け入れている会社が周辺部のBIDの中心企業になっていて、この事業をするのに合わせ、周辺部の治安の向上と雇用の増加を果たす。周辺部に低所得者向けの住宅を多数つくり、そこに住んでもらい、働き手として受け入れると。雇用を増やしながら治安もよくし、エリア全体を変えていくことに成功した事例で、非常にユニークな試みです。

BIDがなかなか日本では今は進んでいませんが、大阪市はBID条例をつくり、またこういうTBIDとかTIDみたいなことも、今後、日本の各地域で実践できればと思っているところです。

以上です。ご清聴ありがとうございました。

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